CATS字幕版を見てきた

ミュージカル映画『CATS』がついに日本でも公開されたので、字幕版で見てきた。ミュージカルCATSファンとして生きる気力を失わせる映画であった。

少なくとも私は、最初は「思っていたほど悪くない」と感じたのに、中程から「猫に起きた犬以来の最悪の出来事」というレビューが頭の中をぐるぐる回り、寒気がし、映画がなるべく早く終わることを願うばかりだった。終演時には頭痛までした。昼間の繁華街で買い物もせずに映画館からまっすぐ家に帰ってこの文章を書いている。これを書き上げたあと、ビデオ版を再生し映画の記憶を払拭するためである。

私とCATSの出会いは1998年に発売されたビデオ版だ。ロンドンでのロングラン公演と2015年のリバイバル公演を鑑賞し、日本で劇団四季の公演を鑑賞したことがある。ビデオ版は歌詞とタイミングをまる覚えするくらいよく見た。ミュージカルのCATSは大好きなのだ。

映画化するのにこれほど向かないミュージカルも無いくらい向かないことは事前に分かっていた。思い入れもある分長くなるが、ネタバレありありの感想を書く。

猫がセクシーなのは当たり前

まずは最初、別に良いじゃないか、と思ったところを挙げておく。

英語圏では酷評が噴出して話題になった。いくつか「発情しすぎ」みたいなことが書かれていたが、それは舞台を見ていない人の感想かなと思った。プロのダンサーが猫を真似て踊るのに、セクシーじゃないわけがないだろう。ミュージカルでも猫はセクシーだったし、映画でやたらハァハァ言っていたのも誰に見てほしくて演出しているのか疑問だが、それくらいはまだいい。

また予告編で見た小型猫人間には私もかなり恐怖を覚えていたが、映画本編で見ると15分くらいで慣れた。ハイテク技術を用いているくせに舞台版の衣装よりも猫感が薄いが、当初よりCGの毛皮を増やし、鎖骨を隠したのでましになっていると思う。

ラムタムタガーの歌とマンゴージェリーとランプルティーザーの歌は複数バージョンあるのだが、映画の選択には文句はない。全体的に映画なりのアレンジもあって、ミュージカルと一味違う仕上がりになっている。

…もう褒めるところがあらかた終わってしまった。以降は何がよくないかという話である。

猫のサイズ感がしっくりこない

舞台では観客と俳優が同じ空間を共有するので、セットに置かれているモノ(巨大な空き缶など)のサイズが大きく、人間が猫サイズという表現ができていたのだが、映画だとどうしても「画面の向こうの小型人間」になってしまう。

元々、「この世界で猫はこういう見た目をしている」という暗黙の了解のもと鑑賞するミュージカルなので、映画冒頭で人間の肉体を見せることで余計に猫耳小型人間のモンスター感を倍増させたのは悪手だろう。途中から慣れたとはいえ…

ねずみもゴキブリも人間がやることは想定内だったものの、猫に対してのサイズ感ではなく人間に対するサイズ感に思えた。広大なロンドンを背景にすると、手前の二足歩行の猫たちの縮尺をどう変換しているのか気になって仕方がなかった。人間の身長を四足歩行時の背の高さに変換したの?それとも体長?

とにかく実写世界がリアルであればあるほど猫人間の異様さが際立ち、小型だから人間サイズの空間を持て余すので、そういう違和感を感じるたびに現実に引き戻され、なかなか物語に身が入らないのだ。

俳優の魅力をかき消すCG

元々の触れ込みでは、毛並みのCGがこの映画の目玉のひとつであった。先に書いたように見た目だけなら私も慣れたものの、しかしCG効果が俳優の肉体由来の迫力をことごとく打ち消してしまっていたので、こんなことならCG無しの着ぐるみの方がましだったと感じた。

猫の耳は無意識にピクピクと動き、尻尾はつねに重力に逆らってぬるっと立ち上がり、俳優の肉体と連動しているように見えない。猫の跳躍を表現するのにもCGでびゅーんと飛ばしたりしている。

フランチェスカ・ヘイワード、ロバート・フェアチャイルド、スティーヴン・マクレー、ジジ・ストラーレン、ダニー・コリンズなど私も好きなダンサーたちが沢山出演して踊っているのだが、こんなことをされては、彼らがスムーズに踊れば踊るほどCGなのでは?と錯覚してしまう。フランチェスカが綺麗にくるっと回るのを味わいたいが、彼女の肉体には常に立ち上がるCGの尻尾がついているのだ。じゃあ、このダンスはどこまで俳優がやっていてどこからCGなのか?

舞台では生で迫力の歌とダンスが味わえた。元々ストーリーはあってないようなものなので、音楽と振り付けとパフォーマンスが見どころなのだ。ダンサーがくるくると回ると衣装についた尻尾もぐるぐる周り、ダンサーが止まると尻尾があとをおってパタと体にぶつかる。ダンサーの動きの機敏さや緩急がそんなところでも感じ取れたことを思い出した。

映画では嘘がつけないって知っているだろう

舞台なら勢いでごまかせるところも、映画になると嘘がつけないことはもう作り手も観客も分かっているだろう。

CATSの舞台では、元々芝居でもなんでもなかったT.S.エリオットの詩に、新たにグリザベラの詩と設定を加え、ジリアン・リンの振り付けでまとめ、音楽や現場の高揚感でエンターテインメントに仕上げていたのだが、それをそのまま映画にして良いわけではない。

映画でも、それなりの脚本の努力は感じた。白猫ヴィクトリアの設定を膨らませジェマイマの役割を兼ねるあたりは筋がすんなり通るし、なんでここでこいつが歌う?というところを全部ストーリーテラーのマンカストラップにした(せいでかなりの大役になってしまった)のも良いだろう。

しかし、映画として成り立たせるための努力が圧倒的に足りない。

後半はミュージカルも、それでいいの…?と思いつつ感動的に終わる展開なのだが、映画でもそのままで、むしろなんじゃこら…?おっかしいねー?とコミカルに提示されていていたたまれなかった。諦めないでほしい。

有名人出演のコントのよう

本当に残念だったのは、ミュージカルの映画化というよりは、ミュージカルのコントのように見えたことである。

映画になるなら、舞台には出ないような有名な人が出演するのはよくわかる。ただ、今回の配役と演出は、俳優に役柄を演じさせることに失敗していると思う。むしろ、「誰々がCATSをやってみた」という体裁と言ったら良いだろうか。レベル・ウィルソンは「ジェニエニドッツ」ではなく「CATSをやっているレベル・ウィルソン」だったし、「マキャビティへの恐れと羨望を表す歌」も「テイラー・スウィフトのソロパフォーマンス」だった。このタイミングでイドリス・エルバのコートを脱がせて人間的な肉体を見せられる意図はなんなのだ。

こうなると、スティーヴン・マクレーのタップも鉄道猫には必須ではないし、豪華なコントにジュディ・デンチとイアン・マッケランまで出ていてすごいね、という捻くれた気分になってくる。

君たちはなぜそんなに細切れに歌うのだ、なぜ朗々と歌い上げてくれないのだ、ミュージカル俳優じゃないからだ!!!(爆発)

つまり映画に向かないのだ。

わかっていたが、やはりCATSは映画化に向かないと思った。むしろ、私たちファンが長年閉じられた空間で楽しんでいたものが、一番嬉しくない形で白日のもとにさらされたような気分になった。こんなにミュージカルが好きなわたしでも映画に退屈したのも悲しかった。

ミュージカルファンがなぜ何度も舞台に足を運ぶかと言うと、間近でプロの仕事が見れるからである。迫真のダンスや歌や演技は、生が一番魅力的なのだ。CATSは人間が猫を演じるというファンタジーだが、それを劇場に集まった人たちの間だけでは信じたふりをしていられるからこそ楽しかったのだ。

そのような喜びが、ことごとく映画では否定された気分になった。

ここまで書いて、T.S.エリオットの詩のファンからしたら1981年にミュージカルになったときに拒否感もあったのではないだろうかと思い至った。今なら少し気持ちがわかるかもしれない。私が好きなのはこんな奇妙なものではなかったのに、という思いだ。

おまけ:1998年ビデオ版がおすすめ

ここまで何度も言っているビデオ版というのは、スタジオに舞台セットを再現したところでほぼ舞台通りの演技を撮影したものである。俳優のクロースアップも見れるし、ダンスシーンの迫力もうまく捉えられている。

今回の映画を見るなとは言わないが(むしろここまで読んだ方は映画を見ている方だろうが)、私はもう今後は1998年ビデオ版や舞台でCATSを楽しむことにしようと思う。おそらくいつかどこかでまた英語のリバイバルもあるだろうから、その機会を楽しみに生きていきたい。

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