引き続きの、舞台配信の感想メモ。
舞台配信:Midsummer Night’s Dream (Shakespeare’s Globe) / Midsummer Night’s Dream (Bridge Theatre/NTL) /『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊 / What Do We Need To Talk About?
Midsummer Night’s Dream (Shakespeare’s Globe)
2013年のプロダクションの配信。当時の芸術監督ドミニク・ドロムグール演出、出演はミシェル・テリー、ジョン・ライト、ルーク・トンプソン、マシュー・テニソン等。グローブ座による前座動画で、インターセクショナルフェミニズムの視点から、女性には全く優しくない世界観の物語であるという解説あり。
Globe PlayerとDVDでも試聴済みだが、数年ぶりに再度試聴してみた。様々なところでギャグっぽい解釈を入れているプロダクションで、特にパックとオベロンによる妖精ジェスチャーが楽しい。パックはミミズクのような羽をつけていて、なんだか気だるげな少年のような雰囲気。「アセンズの衣服を着ている男だと仰ったではありませんか?」「そうだった…」というやり取りだけ現代的すぎて、何回見ても笑ってしまう。
ただし、序盤はちょっとしんどい。ジョン・ライトとミシェル・テリーが演じるシーシアス/オベロンとヒポリタ/タイターニアが、野性味あふれるコスチュームで大声でギャンギャン会話を交わしていて、正直見ていて心地良くはない。終盤で態度が軟化するのと差がついてはいるのだが…。
森に迷い込む若者4人も、勢いよく取っ組み合いの喧嘩をしていて元気いっぱいである。ドロムグール演出のシェイクスピアコメディはしばしばこのようなフィジカルな演出をしている印象があるが、鬼気迫る取っ組み合いは立ち見客に受けが良かったりするのだろうか。そんな中、ボトムはひたすら無気力演技でバランスを取っている。
Midsummer Night’s Dream (Bridge Theatre)
2019年に上演、ナショナル・シアター・ライブで中継されたもの。日本でも映画館上映されたが、私はナショナル・シアターの配信で視聴。演出はニコラス・ハイトナー、出演はグウェンドリン・クリスティー、オリバー・クリス、デイヴィッド・ムーアスト、キット・ヤング、ハメド・アニマショーン等。
とても楽しいプロダクションで、高揚感がある。配信の時点で、日本語ツイッターでも「ビヨンセ神輿」なるキーワードが飛び出すなど注目を集め、上映も(ソーシャルディスタンスに配慮した席数しか販売されなかったとはいえ)完売の回がでた。
このプロダクションの特徴は、1階中央の観客を立たせたイマーシブ型であることと、タイターニアとオベロンの役割を入れ替えたことである。舞台の形を変えながら観客を誘導して劇を作る手法は、同劇場2018年の『ジュリアス・シーザー』と同様だが、妖精たちが空中曲芸で宙を舞い、ダンスナンバーで盛り上がるシーンなどで、観客全体が祭りに加わるような雰囲気のイマーシブシアターに仕上がっている。
タイターニアとオベロンの役割が入れ替わることで、先のプロダクションで感じた「女性の扱いの酷さが気になって笑えない」気持ちが一掃され、目がさめるような現代的な解釈の舞台になっていた。このプロダクションはヘレナを「可哀想な女性」に描くことも避けているように見えた。やや過激で破滅的なアプローチを繰り出すので、ヘレナを拒むディミートリアスが常識人に見えたのも新鮮で、好ましいと感じた。
タイターニアとオベロンの入れ替えは、オベロン役オリバー・クリスの明るく健康そうな佇まいがあるからこそ効果的だっただろう。ハイトナー演出作やナショナル・シアターの演目にもよく出演している高身長の青年で、真面目な役もするけれど、羽目を外したおバカさんの役もうまい。意に沿わない恋に落ちる羽目になっても後で立ち直りそうな頑丈さがあり、彼がオベロンを思い切りよく演じるからこそ、観客は「楽しそうでよかったね」という気分で見ていられる。
この芝居のプロットの肝である、人の気持ちを他人が操りわざと弄ぶという部分は、2020年の今となっては単なる笑える展開として見過ごしにくい。上記以外にも、オベロンの相手になるボトムも魅力的なキャラクターにしたり、結末の展開でもこの操られた恋の記憶を漂わせ良い効果を及ぼす等、ポジティブに昇華させる試みが随所に見られた。
『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊
KAAT神奈川芸術劇場による配信を視聴。私も事前にチケットを予約していたプロダクションだが、コロナの影響で上演が中止になってしまったため、『挫波(ザハ)』と『敦賀(もんじゅ)』の二本立てで、一部をリーディング形式で配信。アフタートーク付き。
ザハとは東京オリンピックの競技場が建設されるはずだった故人の建築家ザハ・ハディド、もんじゅはほとんど稼働されることなく廃炉が決まった原子炉のことだ。どちらも能の形式にならい、その土地を旅人が訪れ、未練を残した人・モノの話をする幽霊と出会う話になっている。映像は一般的な配信映像よりもかなり凝っている。固定カメラで大きな窓と机のある部屋を映し、机の上に掌サイズほどの白いパネルを複数置き、俳優たちのリモートで撮影された演技を一人ずつそのパネルに映し出すという形式だった。夕方からの配信だったが、窓の外では通行人が歩いている様子や、あたりが徐々に暗くなっていく様子が見えた。
『ザハ』は建築家の残したであろう未練についての語りがあまりに説明的すぎると感じたが、私個人が少し事前知識があったからだろうか。元は「実現しなかった競技場」の話だったはずが、開催されるはずだったオリンピックも延期になり、芝居上演も中止になったので、未練の未練の未練のようなウソのような状況になってしまい、その現実離れした現実に芝居が押され気味にも思えた。『もんじゅ』になると芝居の調子にも慣れ、妙に面白い感触があった。人ではない存在を幽霊にする方が捻りがあって良い。映像はZoom会議のような画面をあえて避けたセッティングになっていたために、演技の細部はよく見えないくらいだったが、鑑賞する際には気にならなかった。
アフタートークで、白井晃の「いろんなところで見てみた」報告を聞けたのもよかった。私は生の演劇も配信も室内でばかり見ているが、配信であれば見る環境を自分でコントロールできるという、考えてみれば当たり前のことを思い出させてくれた。私もやろうと思えば、好きな映像を外に持ち出して風に吹かれながら再生してみることができるのだ。
What Do We Need To Talk About?
NYパブリック・シアターの配信で視聴。リチャード・ネルソンによるシリーズものThe Apple Family playsの新作。この新作ではZoom家族団欒を配信し、コロナ禍のニューヨークに暮らす家族それぞれの「いま」を描いた。
以前の芝居のことは全く知らなかったが、この配信のみの視聴でもアップル家の会話についていくのには問題なかった。せっかくのリアルタイムを描いた物語だったのに、アーカイブ配信の期限ギリギリになって視聴したので、私が見た時点では「ちょっと前」の時間感覚になったのが少し勿体なかったか。
内容は、最初しばらくは家族間のキャッチアップ、後半はひとりずつ何か短い話をする、という「家族Zoomお茶会」みたいなもの。話し合いに重きを置く姿勢で個人間の距離感が近そうに見えるのだが、家族であっても気を使い、相容れない部分があるのを見せるのがうまい。演技がとても自然で、撮影場所もおそらく俳優の家を使っているので、本当の家族かと錯覚しそうになる。
最後の数分が抜きん出て印象的だった。これでお開き、となったあと、家族は一人ずつカメラの前を離れ、最後の一人が画面をオフにして芝居が終わる。一人ずつ人が減るたびに、残った家族たちの顔つきが少しずつ変わり、さっきは言えなかったことを数秒だけでもこそこそっと相談し合う。さっきまで笑顔で話を披露していたのは、それなりに気を使って楽しく過ごそうとしていたためで、内心気がかりなことがあったということが明らかになる。しかしこれは家族の仲良し具合がフェイクであるということでは全くなく、どこの家族やコミュニティでも自然にやっているような、気遣いや思いやりのようなものに思える。このZoomのログアウトの流れで、最後に各キャラクターの「一番気になっていたけど言えなかったこと」が明かされる手法は、とても自然なうえに感動的だった。