On The Townにおけるダンスする主人公の身体についての考察

2019/7/13 オン・ザ・タウン(兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール)

佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2019 ミュージカル「オン・ザ・タウン」(兵庫県立芸術文化センター)を鑑賞してきた。昨年まではオペラを上演してきた企画だが、今年はバーンスタインのミュージカル「オン・ザ・タウン」を取り上げている。とはいえ、ミュージカル俳優ではなく、オペラ歌手とバレエダンサーが中心の出演者をロンドンオーディションで選出している。

下記に、二か所のダンスシーン(第一幕Pas de deux、第二幕Imaginary Coney Island)を見ながら考えたことを、シーンを記述しつつ記しておこうと思う。

(つまり考察なので、普段の観劇感想とは趣が異なる)

ダンスシーンで表現される心と身体の二重世界

本公演は、ソロ歌唱を担う俳優の多くがオペラを本業としており、主人公ゲイビーを演じるのも、バリトンのオペラ歌手である。アンサンブルキャストにはバレエを踊ることができる俳優が多く、ハイレベルなダンスは彼らが担っている。そのためか、ゲイビーとアイビーの主役カップルが踊るふたつの見せ場シーンだけは、オペラ歌手と異なるダンスを専門とする俳優がゲイビー役を担い、歌手の俳優はその風景を眺めるという演出が採用されている。ちなみに、アイビー役の俳優は、全編通じてダンスの技術があるひとりの俳優が演じている。

このふたつのダンスシーンのゲイビーの振付演出が興味深いと思ったので、下記にどのようなものだったか、考察を加えつつ記述する。

第一幕、ニューヨークの公演。Lonly Townを歌い上げたゲイビーA(主役のバリトン歌手が演じる)は、自信を喪失し孤独感に苛まれながら、公園のベンチの左端に座る。まだ見ぬ意中の女性アイビーのポスターを顔の前に持ち上げ見つめる(このとき、観客からはゲイビーの顔が見えなくなる。)

ひとりの海兵が近づく。ゲイビーAと似た背格好、同じ衣装のゲイビーB(ダンスを担当する別の俳優)である。ゲイビーBがベンチの右側に腰掛け、ゲイビーAを見つめることで、2人が同一人物であることが示される。

ゲイビーBはふと立ち上がり、踊り出す。アイビーが現れ、ゲイビーBと2人で踊る。アイビーと両想いになるというゲイビーAの夢想世界が、ゲイビーBのダンスで表現される。ここでは、ベンチに座ったままのゲイビーAの身体が象徴する物理的世界と、ゲイビーBの担う想像世界という二つの世界が舞台上で同居している。観客の視線は自然とゲイビーBに集まるだろう。アイビーとゲイビーが踊るシーンはミュージカルの見せ場でもある。(曲目:Pas de deux)

ゲイビーAは遅れてポスターから目をあげ、状況に気がつき、喜んでウットリとダンスを見つめる。夢想世界が本人に先んじて展開し、本人は遅れてそれにリアクションをとるところが興味深い。ゲイビーAとBは完全に一致した存在ではなく、ベンチに座るゲイビーAは夢を見てそこに新鮮な喜びを感じており、踊るゲイビーBはアイビーへの恋情とめくるめくダンスに喜びを感じているという、二重の感情表現がなされている。

やがてダンスは終わり、夢想世界のアイビーは去り、ゲイビーBはベンチの方に歩いてくる。それを見つめるゲイビーAはいつのまにかベンチの右側に移動しており、ゲイビーBはその左隣に腰掛ける。

ゲイビーBはポスターを手に取り、顔の前に掲げ、顔を隠してしまう。最初のゲイビーAのポーズをゲイビーBが再現することで、現実世界のゲイビーはこの間、公園のベンチに座ってポスターを眺めていただけだということがわかり、喜びにあふれた夢想世界から一転し、再び哀愁が表現される。

ゲイビーBの顔が隠れ動かなくなったので、観客はゲイビーAの表情とボディランゲージに注目することになる。ここでは、ゲイビーBの方が実際のゲイビーの姿を表しており、ゲイビーAは自身の姿を外から眺めながら、心中の表現を担うことになる。シーン冒頭とここでは、ゲイビーAとBの肉体と心を表す役割が入れ替わっている。

感情を司るゲイビーAは、次に物理的な肉体のコントロールも取り戻し、立ち上がってコラールを歌い始める。アンサンブルが舞台に戻り、躍動感を失ったゲイビーBはそっと舞台から歩き去る。

ひとりの人物を表現する歌う身体と踊る身体が登場し、交互に優位に立ち、やがて再びひとつの身体に収斂するというシークエンスである。ひとりの人物のからだと感情が二重に舞台上に存在することで、複雑な心情描写が可能になっていると思う。

第二幕のImaginary Coney Islandでも同じように、踊るゲイビーBが登場すると、そちらがダンスで想像世界の表現を担い、舞台上で優位に動く。やがて想像上のアイビーが登場し、ゲイビーBと踊る。このシーンではゲイビーAとBはさらに分裂した動きを見せる。ゲイビーAは寝そべりほとんど動かず、ゲイビーBの表現する夢想世界が展開していくと、顔をそむけ膝を抱えてしまう。ゲイビーBがゲイビーAの肩をゆすり注目を引くと、ゲイビーAは顔を上げ、ゲイビーBを追いかけようと立ち上がる。ゲイビーAが徐々に動きを取り戻すと同時に、ゲイビーBは舞台から去る。

やはり、空想世界を表現するシーンにおいて、踊る身体と歌う身体は別の動きを見せながら順に優位に立ち、最後には元のひとつの身体−−全体を通してゲイビーを演じる主役の俳優−−に戻る。

ゲイビーの歌唱とダンスを異なる俳優が担うという演出は、キャスティング方針からある程度必然的に選択されたものではないかと推測するが(他の公演や映画は未鑑賞)、良い劇効果を生んでいるように感じられた。

アイビーの客観化される身体(おまけ)

上記のように、本作のゲイビーについては、踊る身体が登場するとそちらが一時的に舞台をコントロールし、能動的に動いている。対して、意中の女性アイビーの踊る身体は、劇中ではほとんど主体性がなく、常に客体化される身体として登場する。

アイビーのダンスシーンは、ミス改札口のシーン、前述の空想のペアダンスシーン2つ、ベリーダンスのシーンが主なものだ。ミス改札口のシーンはややはみだすところはあれど想像世界のなかの「見られる女性」としてのミス改札口=アイビーが描かれ、空想のペアダンスシーンではゲイビーの夢の中の女性を表現している。ベリーダンスシーンは現実世界を描いているが、ダンスは見世物ショーであり、本人は嫌々肌を露出して踊っている。

劇を通してみてもアイビーの人柄が表現されるシーンは極端に少ない。歌唱レッスンシーンにおける「ポスターに見合う実力をつけたい」「ベリーダンスの仕事が本当は意に沿わない」という発言と、ゲイビーへの好意程度しか意思が読み取れない。唯一の持ち歌であるレッスンの歌では、教師の個性の方が強烈にアピールされているように思える。

アイビーを演じる俳優の技量にスポットライトが当たるミュージカル上の見せ場はあるものの、歌やセリフ、ダンスを通したアイビーの人となりの描きこみはかなり浅く、むしろほとんどが見られる対象としての偶像的な描写に貢献していると言えるだろう。ゲイビーのダンスが、その振り付けにより心情描写に厚みをもたらしていることとは対照的である。

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